今更だけど映画『怪物』のこと
今更だけど映画『怪物』のこと
先日Amazonプライムを見ていると監督・是枝裕和 × 脚本・坂元裕二の映画『怪物』が追加されていた。
この映画はリアルタイムで映画館で観ていて、そのときに思ったんことがあった。
観ている最中から福田ますみさんのノンフィクション本『でっちあげ』が頭の中に浮かんで、『あぁ、あの事件が題材なのか』と思いながら観ていた。
あの事件というのは2003年に福岡で実際に起きた冤罪事件「教師によるいじめ」事件のことで、当時ニュースでも大きく取り上げられていた。
事件のことはジャーナリストの福田ますみさんが書いた『でっちあげ』という本でそのとき起こったことを詳しく書いていて、その内容が強烈だったので今でもはっきりと覚えている。
だから、その事件の話なのかと思いながら映画を観ていたわけだけど、どうも観ている途中から頭が混乱し始めた。
理由は肝心なところが僕の知っている事件と違う。ほとんどが一緒なのに肝心なところが違う。
事件の構造やストーリー展開が『でっちあげ』と酷似しているのに肝心なところが、、、
とにかくすっきりとしない気分でエンドロールを迎えた。エンドロールを観ながら、まあ参考文献か何かで出てくるのかな?と思っていたんだけど出てくることはなかった。
一応、でっちあげという本がなくても大きく取り上げられた事件ではあるので、例えば冤罪事件「教師によるいじめ」事件のことでも明記されていたりしたら、多少はすっきりしたかもしれない。プライムビデオで見直したんだけど、やはりどこにも明記されていなかった。
もちろん、『怪物』はフィクションではあるし必ずしも参考文献を明記しないければいけないというわけではないのかもしれない(こういうとこは詳しくないので実際はわからないけど)
けれど、事件のモデルになったと感じさせるほどの類似点がある場合、それを参考にしていることをどこかで明示してほしいなと、
それから一番腑に落ちなかったりすっきりしなかったのは、実際の事件と「主犯」が事実と異なっている点で、それがどうしても受け入れられなかった。
『でっちあげ』の事件では、実際の主犯は保護者(母親)だった。けれども『怪物』では、明確な主犯という描かれ方はしていないけど、2人の子どもが事件の中心に受け取られる描かれ方をしていて、これは結構問題じゃないかと思った。フィクションだからこそ脚色は許されるのでしょうが、観た人の中には『怪物』の内容をそのまま「事実」として受け取る人もいるのではないかと思う。実際に上映当初SNSには『これ、でっちあげじゃん!』みたいな書き込みが結構あった、実際に『でっちあげ』を読んでいない人だったら、母親が主犯だったことは知らないし、2人の子供が事件の中心にいると誤認すると思う。
事件自体がすでに風化しつつあるだろうし、映画が事件の認識を変えてしまうことには個人的には大きな問題だと思うし、かなり微妙なラインにあるように感じる。
『でっちあげ』を書いた福田ますみさんはジャーナリストだし、実際に起こった真実を伝えようと書いているはずなので、どう思っているのか気になる。
正直に言えば、この事件を知らないはずはないだろうから、坂元裕二さんや是枝裕和監督がこの件についてどこかで説明してくれれば、それだけで納得できる部分はあるし。「参考にしました」と言ってくれれば、フィクションとして受け止められるし、(事実誤認する感じは受け入れられないけど)こうしたセンシティブな題材に対して敬意を払っていると感じられます。でも、今のところそのような発言は見つからない。
あと気になるのは、結構SNSでは、あれはでっちあげだとか、パクリだみたいな投稿も結構あったけど、映画の記事などでも見た記憶がない。さらっとネットを徘徊してみたけど、僕みたいな素人が書いていることはあっても、ちゃんとした人が書いたレビューや批評も見つからなかった。Wikipediaにすら何も触れられていない。
個人的には、映画『怪物』自体はいい作品だと思うし。映像も美しいし、子どもの目線や社会の偏見など、考えさせられるシーンも多かった。ただ、観終わったあとにモヤモヤが残っていたので。サブスクに解禁されたタイミングだけど、こうして思ったことを書いてみた。
もし同じように感じた人がいたら(いるだろうし)、ぜひ意見を聞かせてほしいものだ。
うつ病と適応障害の社会的理解とその課題:支援と責任のバランスは?
うつ病と適応障害の社会的理解とその課題:支援と責任のバランス
近年、うつ病や適応障害に対する理解が進んでいる一方で、過剰な配慮や誤解、関わらない方がいいという距離感が社会や個人に不健全な影響を及ぼすことが大きくなっている。
また、診断を巡る問題や「死にたいという」という発言がコミュニケーションに与える影響も軽視できない。
本稿では、これらの課題を整理し、支援と責任のバランスを保つ為の考えを提案しようと思う。
▪️診断の曖昧さを課題。
うつ病や適応障害の診断は主観的な症状に基づきやすく、患者の言葉や態度が診断結果に大きく影響を与えていると考える。
実際に先日、私本人が、不眠の症状がある為に精神病院に行ったところ、腕を後ろに組んで話を聞いていたことに対し、不自然に思い、そのことを深く聞いてきた。
ただ普通に楽だったから後ろに組んでいただけなのに、そのことを何かしらのストレスによるものと医師は見ていたのだ、その後も「死にたいと思ったことはありませんか?」的なことを多く聞かれ
その都度、そりゃ生きていたら多少、もう嫌だなとか死にたいなって思うことも0ではないけれど、それはそこまで珍しいことではないでしょうし、今困っているのは単に寝れないので辛いという話なのだが、
どうも、うつ病や精神疾患を疑っている節が見受けられた。その先生がおかしいわけではなく、どこかで患者の僕に医師としての意見が言いにくそうに感じられた。
もし、僕がこの際に、少しでも症状を装っていたとしたら、何かしらの病名がつくような感じがした。
先ほど述べたように、うつ病や適応障害は患者の言葉や態度が診断に大きく影響を与えるように感じられた。
そのことから、例えば軽度のストレスや、一時的な感情の変化も「うつ病」と診断されることがあり、結果的に診断の信憑性が揺らぐ問題があると考えられる。
▪️環境要因(適応障害)との関係
金銭的な困難や人間関係の改善で症状が劇的に改善するケースは、一時的なストレス反応や適応障害である可能性が高いと考えます。
この一時的というのは難しく数時間もあれば数ヶ月に渡る場合もあれば数年になる場合もあり、それはその環境が変わるまで続く可能性があります。適応障害を病気として使う基準は難しく、
適応障害を過度に病気とみなすことは、過剰診断や社会的責任の回避といった問題を引き起こすリスクもあると考えます。
ただ、放置するとうつ病などの疾患につながる恐れもあるので、とても難しい問題になります。これは甘えにも密接な関係があり、甘えが疾患を誘発する可能性があることも示します。
例えば、遺産が入ってきたり、彼女、彼氏ができたら治ったというのは、適応障害の可能性が高く、そのようなことを病気として扱うかは難しい判断になります。
▪️診断を求める患者と医師のジレンマ
診断に関して、患者側が「うつ病などの診断を受けたい」という目的で医療機関を訪れるケースが増加しています。その中で特に下記のような問題が医師の診断を困難にしていると考えます。
①SNSによる評価の圧力。
医師がうつ病(精神疾患)の診断を下さない場合、患者がSNSなどに「ヤブ医者」などと投稿するケースがあります。このような風潮が医師のプレッシャーになり、適正な診断が難しくなっています。
②セカンドオピニオンの乱用
医師が別の医療機関を訪れ、最終的にうつ病などの診断を出してくれる医師を探し回る傾向があります。これにより、診断の一貫性が失われることが問題になります。
またそのような医師の情報はSNSやその界隈で共有されることが多くあり、うつ病の診断を出してもらうために、そこの病院に行くという現象が起きています。
こうしたことが医師と患者にとって、特に明確なうつ病患者にとっても不利益を生む可能性があります。
▪️「死にたい」という発言の持つ意味と影響
①心理的背景
「死にたいと」という発言には以下のような心理があると考える。
①助けを求める感情
本当に深刻な苦痛や絶望を抱えた人が周囲に助けを求める為に発する場合。この場合は緊急の支援や対策、支援が必要だと考える。
②自己防衛としての発言
他者から批判や指摘を受けた際に、それを回避する為に用いられることがある。この状況は、「死にたい」という発言が、対話を封じる目的や、無意識のうちに会話を封じる暴力的な言葉に繋がることがある。
但し、一方的に会話を封じる暴力的な言葉と捉えると、その背景にある動機や文脈を見失う可能性があるので、死にたいという言葉を多層的に考える必要がある。
③注目や同情の獲特得(承認欲求も含む)
自分に関心を向けて欲しいとおいう欲求から発せられる場合も考えられる。
▪️言論封殺としての影響
「死にたい」という言葉は、発言を受けた相手に大きな心理的な負担を与える。その結果に以下のような影響を生む可能性が高い。
①議論や対話の終了
相手は「これ以上言ってはいけない」という感覚に陥り、健全な意見交換ができなくなる。
②過激な責任感の押し付け
発言を受けた側が、過度な責任感を感じ、無気力感や恐怖心を抱くことがある。また人間はタイミングによって誰でも簡単に死ぬこともあり、結果によって実際に大きな恐怖心を罪悪感を生むことになる可能性がある。
③対話の不健全化
「死にたい」などの会話が繰り返されると、相手は「わかった」「そうだね」「ごめん」のようなことしか言えなくなり、発言者と受け手の関係が歪み、一方通行の言葉になる。
▪️適切な支援と責任のバランスをどう考えるか
①診断の精度と支援の厳密化
医師が診断を下す際の独立性を保ち、SNSや患者の期待からのプレッシャーに流されない仕組みが必要。(例えばGEEG検査の精度向上と根拠の一貫性の共有)
②セカンドオピニオンの透明化を確保し、他の医師の診断の一貫性を持つシステムを整備する。先のGEEG検査などが今後期待される。
但し固定化には問題もあり、社会的な不公平感や患者の回復の妨げとなる側面もある。
▪️「死にたい」発言に対する適切な対応
①発言を真剣に受け止めつつ冷静に具体的な状況を聞き出す。「死にたい」発言が出る状況にならないように会話の流れを考えておく。
②「死にたい」発言をされた時の対応は「死にたい」という言葉は対話の妨げだということを指摘し、代わりの言葉に代用される。死にたい言葉になる前の肯定を再度、思考する。
▪️現在までの結論▪️
うつ病や適応障害への理解と配慮は重要だが、その過剰さが社会に不公平感や偏見を生み、患者自身の回復を妨げる可能性がある。「死にたい」という発言は、発言者にとっては感情の表現である一方、受け手には強い心理的圧力を与える。これが対話や信頼関係を歪める一因となる。また、SNSやセカンドオピニオンの利用が診断に与える影響についても慎重な検討が求められる。
本稿では、これらの課題を解決するために、診断の独立性を保つ仕組み、健全なコミュニケーションスキルの教育、段階的な社会復帰支援の必要性を提唱した。最終的には、支援と責任のバランスを保ち、患者と社会の双方にとって健全な在り方を追求することが求められる。
戸塚ヨットスクール戸塚先生を観ながら思うこと
先日、アベプラに戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏が出演していた。
少し前にも出演しているのを見たけれど、会話が全くと言っていいほど成り立っていなかった。
※戸塚ヨットスクールの事件を知らない人は、ネットやウィキペディアで簡単に調べられます。
最初から話を聞く気がなさそうで、すぐに「バカ」「リベラル」などと言い、聞いた質問に対して、その一部の意味をしつこく問いただしてくる。もうどうでもいい時間が流れていた。
今回は、そんな戸塚先生の思想を後世に残すために、ある青年が戸塚先生の話を投稿するYouTubeチャンネルを始めたことが話題となり、アベプラで取り上げられたという流れらしい。
まあ、そのYouTubeチャンネルは、今後の収益を目指して戸塚校長を矢面に立たせているだけのように思うし、だからこそ顔を出していないのだと思うけれど、それはどうでもいいし、興味もないので見ていない。
あくまで、今回と前回のアベプラに出ていた戸塚校長を見て感じたことをダラダラと書いてみようと思った。
とにかく番組としては成り立っていない感じだった。戸塚校長は前に話したことを繰り返しているだけで、録音したものを流しているのと何も変わらない。
あの様子だと、まず戸塚校長の話だけを聞く回を設け、その後日、戸塚校長不在で意見を交換する番組にした方が、まだ見やすかったような気がする。ただ、それだと結局、戸塚校長の本質が分からないまま終わってしまう気もした。
「でも、人が亡くなるのはダメですよね?」といった質問に対しても、答える気がなさそうで、自分の言いたいことを言い始める。
そうであるならば、体罰の是非を議論するよりも、彼の生い立ちや幼少期のことを聞いて、戸塚校長がどのような人生を歩んできたかを知る方が、よほど意味があると思った。
そこで少しネットで戸塚校長のことを調べてみたが、彼の両親がどんな人だったのかは見つけられなかった。姉がいたことは分かったが、それ以外はほぼ不明だった。
分かるのは戸塚ヨットスクール以降の話で、せいぜい学生時代にヨット部の主将だったということくらいしか分からなかった。
でも、繰り返される戸塚校長の話の中で気になったのは、やたらと「リベラル」という言葉が使われていたことだ。そこに違和感を覚えた。
一般的に「リベラル」という言葉は、個人の自由や人権、多様性を尊重し、政府による福祉や社会的平等の推進を重視する立場を指すことが多いが、戸塚校長が使う「リベラル」は、どうやらアメリカに対する言及のように感じた。アメリカの自由主義的な価値観が日本を駄目にしているという、強いアメリカへの嫌悪感が伝わってきた。
戸塚校長は84歳とのことで、計算すると終戦を5歳で迎えたことになる。彼は日本統治下の朝鮮で生まれ、まだ日本が強かった時代を知っているかもしれないが、5歳で終戦を迎え、その後の苦難の時代を生き抜いてきた。両親が戦争で亡くなったか生き延びたかも調べても分からなかったし、彼がどんな生活をしていたのかも不明だった。
ただ、なんとなく感じたのは、戸塚校長は日本が戦争で負けたこと、そして戦後の幼少期の経験が彼の考えに大きく影響を与えており、単純に言えば、日本が第二次世界大戦で敗れたことを受け入れられず、次の戦争では日本が勝てる国にしたいと考えているのではないかということだ。そのために帝国主義を再建し、今度こそアメリカに戦争で勝つ国にしなければならないと信じているように感じた。
だからこそ、「厳しさ」や「強さ」への執着や、リベラルな価値観への反発は、第二次世界大戦後の日本の変化や敗戦による価値観の転換に影響され、現在のような思想に至ったのではないかと思いながら番組を見終わった。
今の政治に歪みが多いわけ。政治家とは、唯一人気者に嫌がらせができる職業だ。
今の政治に歪みが多いわけ。政治家とは、唯一人気者に嫌がらせができる職業だ。
自分に魅力や自信がなかったり、肩身の狭い生き方しかできなかった人は、無意識に人に必要とされたり、人気者であったりする人に対して嫉妬感が強く、どうしても受け入れられないところがある。だからこそ、結果がわかりやすい勉強を頑張る人も多かったりする。
無意識に必要とされる人は、普段の生活がわりと生きやすいため、嫉妬も少ない。だからいわゆる「リアルが充実している」ことにつながり、細かいことに苛立つことは少ない。そういう魅力的で自信がある人や人気者に対して、唯一嫌がらせができる職業が政治家だと思っている。だから政治家は陰湿な人が多くなる傾向があると個人的に思う。政治家の家系に育った人も、意識的だったり無意識的だったりにせよ、期待をされる重圧があり、周りが自由に遊んでいるときに、自由にできなかったり、「政治家の子供だからこうあるべきだ」とか「こうしろ」といった押し付けもあるだろう。
だから悪いことをこっそりしてしまったり、捻くれて育つこともあるように思う。
そういう流れで政治家になった人は、魅力的で自由があり、無意識に求められる人に対して人生をかけて嫌がらせをしたいと思うこともあるはずで、その思いはけっこう強く、そのために多少の犠牲は仕方ないと考えているはずだ。
いわゆる「無敵の人」の感覚に近い。だから、そういう人たちが生きにくくなるような政策を進めることもあるだろうし、わざわざ、世間や小さいころから必要とされて育った「リアルが充実している」人がさらに生きやすくするような国にすることには抵抗があるはずだ。しかし、少々のことでは、その「リアルが充実している」幸せな人にダメージを与えることは簡単ではないので、必然的に不条理な政策が多くなったりする。けれども、そういう人たちは結局幸せに生きていけるので、選挙に行ったとしても過度な不満はない。実はそれくらい冴えない人間とは温度差がある。良い意味で政治に興味がなくても、わりと幸せに生きていけるわけだ。
でも、空気が変わったのは福島の原発事故が分岐点になった気がする。今まで毎日楽しく生活していた日常に放射能という問題が起こり、初めて自分の生活に火の粉が降ってきた感覚で生活に不安や生きにくさを感じるようになり、政治に対して声を上げるようになった気がする。(実際に僕の周りでも嫉妬もなさそうで自由でカッコいい人やミュージシャンがこぞってガイガーカウンターを買って安心できる場所を探していた) ただ僕みたいな非リア充というか冴えない人生しか歩めなかった人は、そういう事故の前から、魅力的な人の存在が強すぎて生きにくかったし、将来に不安もあった。政治がどうだから生きにくいのではなく、単に自由で魅力的な人の存在が僕らを生きにくくしていたのだ。
しかし、原発の事故などで生きにくさを感じ始めた人たちが声を上げ始めた。これで遂に、政治家が人気者に嫌がらせをできる環境が整ったわけだ。
考えてみれば、そういう人気者が政治に参加して、動かせばいいと思うが、そんなに簡単なことではない。まだ今の政治の世界にそういうリア充が入り込むのは難しい。なぜかといえば、今の政治の世界はまだ、冴えない人の力が強い世界だからだと思う。たまに、一般的な社会の魅力的な人が政治の世界に挑戦したりしているが、そこには埋められない溝があり、結局は対立してしまうし、むしろ、魅力的で自由に生きてこられたタイプに対しての嫉妬感が強いので、ここぞとばかりに嫌がらせをして、優越感を味わえるわけだ。だから普通に生活していたらリア充だろうし、沢山の人に注目されるようなタイプの山本太郎とかが政治に参加しても嫌味を言われるし、そんな嫌味を言われたこともなかっただろうから、嫌味で返したりして何も変わらない。まだ冴えない人生で勉強だけしてきた人や、捻くれて育ってしまった人が多い世界だと思っている。
ではどうしたらいいかと言えば、今の世の中はSNSで、そういうリア充に嫉妬深い政治家に対して罵倒する傾向があるが、それは逆効果で、むしろ嫌がらせの政策を、犠牲が出たとしても進めようとする。これが先ほど言ったように「無敵の人」の思想になる。そういうときは、とにかく褒める方がよかったりする。結構冴えない人生を歩んできた人は褒められることに弱い。結局は、自分の生きにくさの根源になった魅力的で自由に生きてきた人に、存在すら意識されていなかったのに、意識されて褒められることで気分が良くなり、話がしやすくなる。なんだかんだで、魅力的で自由に生きてこれた人に憧れがあり、自分もそういう人になれたと錯覚するものだ。
でも、ちょっと思ったのは、小泉純一郎って結構リア充だったんじゃないかと思う。だから、ある意味自民党が混乱したんだと感じている。
簡単に言えば、現代の政治における歪みは、政治家の個人的なコンプレックスや社会的な力関係に起因していることもあって、それが政策にも影響を及ぼしていることもあるんじゃないかというちょっと捻くれて考えてみた。
#政治 #コラム
精神科はなかなかカオスで不条理だし、よくわからない。
不眠のために心療内科に行ってきた。
昔から不眠症が結構酷いんだけど、仕事柄、毎日朝早く起きる必要もなく、ここ何年も比較的自由な時間で仕事ができる環境だったので、「まあ寝れなくてもいいか」という軽い気持ちで過ごしていた。でも、最近は働き方も変えたいと思い、まずは不眠を治したいと考えて、何年ぶりか分からないけど、睡眠薬をもらいに診療内科に行ってきた。
初診の予約を取るのがかなり難しく、何件か電話してみたが、どこも予約が1〜2ヶ月先まで埋まっていた。ニュースなどで「現代はうつ病や精神疾患の人が多い」と聞いていたけど、ここまでかと思いつつ、行くのを諦めようとしたところ、2週間先なら空いているところがあったので、そこに行ってきた。
まずはカウンセリング。先生から「今日はどうされました?」と聞かれたので、ここ何年も不眠症で悩んでいることを伝えた。すると、仕事のことや生活環境、家族構成などについて質問された。
「仕事や私生活で気分が落ち込むことはありますか?」と聞かれたので、「まあ、ないわけじゃないけど、誰でも感じるレベルだと思います」と答えた。
その後、「それで死にたいと思ったことはありますか?」と聞かれて、「辛いときはそう思うこともあるけど、一過性のもので、ずっと思い詰めることはないです。これも誰でも思うレベルだと思います」と返答した。
すると、「聞いたことだけ答えてください」と言われたので、少し面倒に感じつつ、再度「死にたいと思ったことはないですか?」と聞かれ、「無いです」と答えた。さらに「何か自分を傷つけたりしたことはないですか?」と聞かれたので、「無いです」と返答した。
そのとき、僕は椅子に座って後ろで手を組んでいたんだけど、そのことについて「どうして手を後ろに組んでいるんですか?」と聞かれた。この先生は何を言ってるんだろうと思いつつ、「特に意味はないです」と答えた。すると「いや、不自然で気になったので。それが落ち着くんですか?」と聞かれたので、「別にそんなことは考えずにやっているだけです」と答えた。なんとなく、この先生は何かしら精神疾患的な診断をつけたがっているのかなと感じたけど、先生は結構気を使っているようにも見えた。
そのとき、以前大学の先生か誰かと飲み屋で話したことを思い出した。今の精神科の現状って、「うつ病じゃない」という診断を出すのが難しく、これは現代医療の難しい問題の一つなんだとか。患者が納得しないケースが増え、医療の信頼を揺るがすこともあるらしい。医師は患者の満足度だけでなく、正確な診断と治療を行う必要があるけど、患者の期待に沿わない場合、トラブルになることも少なくないようだ。
結局、「うつ病じゃない」という診断をしても、別の病院に行って「うつ病」と診断してくれるところを探すだろうし、それで「うつ病」と診断されたら、前の病院はやぶ医者だとかSNSに書かれることもある。精神科は本当に難しい診断が求められるんだなと思った。
ちなみに、診療所に来ていた患者さんで、年齢は分からないけど20代後半か30代くらいの人がいた。夏なのに黒いパーカーを着て、ドン・キホーテのドンペンくんのサンダルを履いていた。なんとなく、そのサンダルや服を別のものに変えてみたら、環境も変わるきっかけになるんじゃないかと思いながら眺めていた。
とりあえず、僕はただ寝れないということで薬をもらって終了。まあ、今のところ飲んでも寝れてないので意味がないかなと思いつつ、もう少し続けてみようと思う。
格差社会をワレなりに考えてみた。
今の日本社会は、格差に対する不満を持っている人が多いって言われてるけど、僕としては、昔よりも個人で稼ぐチャンスが増えてきた時代が関係してる気がする。個人で頑張って成果を上げた人が、会社員よりも多く稼げるようになってきて、収入の平均値を上げて、それが「格差社会」って言われる原因のひとつなんだろうけど、実際は、個人の努力がちゃんと報われる時代になっただけだし、誰にでもチャンスがあるって考えると、それって結構フェアなんじゃないかと思うんだ。だから、格差があることが悪いことみたいに言われるのは、ちょっと違和感を感じちゃうんだよね。結局のところ、格差っていうより、働き方の違いが目立ってるだけなんじゃないかなと思ったり。
実は自分は低所得だと思っている人も、それは案外平均的な生活であったり。
ただ、僕が気になるのは、個人で大きな成果を出す過程で、詐欺とか炎上商法みたいなやり方でも利益に直結してしまうことが問題なんじゃないかと。
そういう不正な手法で成功した人たちの派手な生活をしている人がSNSなどで発信し、普通に生活してる人にとっては不快に感じるし、それが格差に対する不満を増幅させてる気がする。
昔は、会社で成果を出した人が成功して、立場も収入も上がるっていうのが大半で、そういう人たちは尊敬されたり、憧れの対象にもなっていた気がする。
でも今は不正な手法ででも利益を上げてる人が目につきやすくなってて、しかもお金さえあれば憧れられる感じが強く、そういうのが格差社会の中での対立や不満をさらに煽ってるんじゃないかって思ったりする。
Awichが苦手で見ると拒否反応が出る。
告白すると、Awichの表現方法が結構苦手だ。今の時代にこういうことは言いにくい世の中ではあるけれど、苦手だ。
「そういうふうに言えば、見なきゃいい」とかいうけれど、SNS全盛の時代、ネットを見ていたら話題になっていることが流れてくるし、うっかり調べてしまうと優秀なアルゴリズムによって次々と流れてくる。
「嫌なら見るな」というのは現実的には難しい。
そういう時代だからこそ、問答無用で流れてくる動画を見て好きなものに出会えることもあるし、苦手になることもある。苦手ではあるけれど、嫌いではない。というのは単純な話で、別にちゃんと話したこともない人に対して「嫌い」と言えるような判断はできない。
たぶんだけど、Awichはいい人だろうし、実際に話したことのある人の話では魅力的で素敵な人だと言うのを聞くし、嘘ではないと思う。まあ、人って実際に会って話すといい人が多いだろうし、世の中に「嫌い」と思えるような人なんてそうそういない。
僕の中で「嫌い」という判断に至るのは、相手が僕個人に対して嫌な気にさせようと思いながら発言や行動をしたことに対して判断することで、相手にその気がなければ「嫌い」ではなく「苦手」ということになると思う。
なので「嫌い」というレッテルを貼る感情には、普通に生活しているとそうなることはない。
あと、「苦手」と「好き」は紙一重で、例えばAwichが沖縄出身なので沖縄関連でいえば、ゴーヤは苦いから嫌いだという人もいるけど、あの苦みがたまらなく好きな人もいる、そんな感じ。
と、「嫌い」と「苦手」の僕の中での違いを書いてみたところで、本題に移ることにする。
好んで見たり聴いたりしているわけではないけど、Awichを知ったのは2010年とか2011年とかだった。当時、ちょうど沖縄に帰ってきた頃だった。その後は、個人的にはほとんどAwichの名前を聞くことはなかったように思う。それがここ数年、驚くようなスピードで飛躍し、活躍している。こうなってくると、好きとか苦手とか関係なく、生活していると目や耳に入ってくる。それがはじめに書いたSNS全盛の時代だ。
そうやって僕の前に現れたAwichを見ていると、なんだか怖いというか、なんとも言えない気持ちになる自分がいた。
この気持ちって何なのか?なんとなく考えていたけれど、最近少しわかった気がする。
女性が男性に言葉や行動でセクハラをされている感覚に近いんじゃないか、そんな気がしている。
Awichの表現方法やパフォーマンスを叩きつけられたときに、僕は心を犯されたような感覚になる。胸の奥に違和感があって、嘔吐しそうな感じもある。怖さも感じる。もちろんAwichは僕に対してそんな気持ちにさせようとか、脅してやろうとか思っていないことは間違いないだろうけど、とにかく心に怖さを感じる。
もちろん、僕がもっとそういうことに関して強い人間だったら、何も思わなかったかもしれない。でも、ああいう感じが苦手な男も結構いると思う。
そう思ったときに、女性が男性から、男性がそんな気がなくても、セクハラ的な発言をされたり、行動や服装を見て、女性が心が犯されるような恐怖心や気持ち悪さを感じる理由に近い気がするし、「こんなに女性は怖い思いをしていたんだな」と分かった気がして、今まで以上に女性に対して接していかないといけないと思った。
ただ、Awichはアーティストであり表現者であるから、特に表現の自由は尊重されるべきだと思っている。当たり前だけど、Awichの存在で救われている人も沢山いることも事実だし、何も萎縮することはないと思っている。自分の思っていることを表現できるAwichはかっこいいとも思う。
それを踏まえて、じゃあ僕はどうしたらいいかと考えたときに、我慢をすることだと思っている。社会生活におけるセクハラに関しては我慢をする必要もないし、ちゃんと訴えた方がいいと思う。
でも、表現の自由の範囲でアーティストがパフォーマンスしていることに対して、僕みたいなタイプが怖さや恐怖心を感じても、実際に僕個人に向けているわけじゃないから、それは我慢するしかないと思っている。
ありえないことだけれど、もしAwichが個室で僕一人に対して目の前で過激なパフォーマンスをして、「このリリックはお前に言ってるんだ」って面と向かって言われたりしたら、冗談抜きに精神的に追い詰められるし、PTSDになる可能性もあると思っている。
でももしかしたら、日々女性が男性に感じている恐怖心や気持ち悪さを感じてもらうために、あのパフォーマンスをしているんじゃないかと思うこともある。
実際に僕は、女性に対しての接し方を今まで以上に気をつけないといけないと思ったし、僕が気がついていなくてもそういう思いをさせてしまったこともあるんだろうなと今、思っている。